2010/09/08

紅茶の香りと、過去を振り返る時間


ここ数日、やっと秋の気配を感じます。早朝の風はさすがに涼しくなっています。ありがたいことに、諸々忙しくさせていただいているので、日記を書けないことが多くなりました。最近モンブランの万年筆でしっかりと手紙を書くことが増えました。手書きすると、上手いヘタは別として、何を書くかということと真剣に向き合うことになります。過去に自分が書いたものも、ちゃんと大事にしないといかん、というわけで、気まぐれにレイドバック&テータイム。お盆過ぎましたが、バタバタしていた今年、ちゃんと気持ちを込めていただろうかな~?

2005年08月17日03:16 の日記より
お盆だし、そうか、誰かのことを思い出そう

不思議だが先日14日中盆、夜遅く帰宅し先祖の写真見たら、柄にも無くむしょうに感謝の気分が湧いて手を合わせて3度『ありがとう、ありがとう、ありがとう』と心の中で言った。それで今年の御盆は終わった。

そのとき、どうこうしてくださいとはいわず、ただお礼を言っただけだ。そしてそれが気分的にピッタリきた。お祈りには、お願いをしないが、『ありがとう』というだけだ。『ございます』もつけないほうが気持ちが乗る。

夏休みといえば、ぼくは子供のころから帰省するたびに、親戚のおじさんやおばさんに、歩き方や立ち居振るまい、食いものの好みそして後ろ姿まで、母方の父で私の祖父である、親三さんそっくりだといわれていた。静か、飄々、でもソートーな頑固者、でけっこうシャレもの、あたらしモノ好き。

祖父はもともと大学で基礎細菌学の研究者をしていた。長崎では、原爆の際のヒューマニスティックな精神と自己犠牲の行動で名誉市民第1号になっている永井隆博士と同僚で仲良しで一緒にピンポンしたり遊んだりしてる写真も残ってる。

当時講師として助教授の席が空くのを待っていた親三じいさんは、自分よりも年配で苦労していた先輩にポジションを譲った。運命とは不思議なもので、この判断がある意味身を救ったことになった。もしそのまま親三さんが研究職に留まり、出世競争に励んでいたら、一家は存在しなかった。

何となれば、その当時一家の自宅は浦上で原爆の超中心地にあり、今の平和公園の敷地のど真ん中にあったからだ。一家みな水蒸気になっていたかもしれない。母は浦上天主堂のそばにあった山里小学校の2年生だった。

研究職を離れた祖父は32歳で軍属になった。そして上海税関の軍医として妻と3人の子供を引き連れ上海に渡った。日本の厳しさと違って、そこは給料もよく、大陸的な当時の気風と豊かさからか、老年に石集めに異常熱中した異常な『凝り性』がこの時も大炸裂してじいさんは『テニス狂』であった。

映画炎のランナーばりのチルデン・カーディガンを着流し、サーブを決める若き日のじいさんの姿がモノクロ写真に眩しい。祖母はベレー帽にパールのネックレス。老齢になってもベレー好きは変らなかった。

上海の『新公園』で日没までテニスに没頭していたじいさんを当時の母と姉2人は、“晩飯の支度ができたよ!”と毎日呼びにやらされた。ついに親三じいさんはダブルス上海大会で優勝した。尤も、異常な凝り性と同時に、洒脱と要領の良さもピカイチだったらしく、仲の良いダブルスの相棒はシングルス日本一のテニスプレイヤーだったというオチだ。

自分よりも遥かに凄い能力や才能を持つ仲間に恵まれてる、って点は僕にそのまま引き継かれてるな。そして昭和20年、海に面した塘沽(タンクー)の検疫所長として、8月15日の終戦を迎えた。一家は、3ヶ月間は北京の洋館と天津(テンシン)の帝国ホテルを行ったり来たりして、空襲の恐怖を味わった。

ドイツ製の燭台付きのピアノやアールデコ調の家具、そっくりそのまま置いて、帰国の途はシベリア経由でLSTという米航空母艦で帰国した。ここでは相当な冒険と苦労があったらしい。この時母は死線をさまよう重病をわずらったらしい。シベリア抑留に関して、祖父の何らかの才覚でギリギリのところを切り抜けたと思われる。

帰国後は開業医として、90歳近くまで営業していた。80歳の時には、当時西ドイツにいた僕の家族を訪ねてきて、当時僕が通ってたグーテンベルク・ギムナジウムに遊びに来た。サムソナイトのトランクの中には、孫のリクエストに忠実に九州とんこつラーメン『うまかっちゃん』1パック。

帰国の日には、ライン河の見えるレストランで食事しながら祖母の写真をそっと窓際に置いた時には、子供ながらにグッ息が詰まった。

もともとは医者志望だった孫(私)に、たった一人で解剖教室にいる(解剖対象は死刑犯罪人)時の恐怖の体験談を微に入り細に入り面白がって語って聴かせ、風が吹いて手ががさっとと動いてさ、、、などなど、ついには、オバケ大嫌いの孫(コワイ話を聴くと風呂に入れなくなる、髪が洗えなくなる孫)がそれを聴いて医者になるのは自分には無理だ、と宣言したため、悲しんだ祖父。

フラッシュバックで記憶が蘇る。後年、母の弟が亡くなった葬儀の日の朝、涙を隠すために、三つ揃いスーツのスタイルでティアドロップ黒のサングラスを掛け、縁側に置かれた籐椅子に足を組んで悠然と座り、棺を見送る不動の佇まい。

晩年、ややボケ入って来て真夜中『やっせんぼじゃ~、ほんなこつ、みなやっせんぼじゃ~』と叫んでいたが、みなただじいさんはボケている、としか解かっていなかったが、ぼくにはじいさんが、何についてどういう気持ちで、引き絞るように叫んでいるのか完璧にわかっていた。

じいさんは、親友との大喧嘩がもとで20代で亡くなった長男、病気で亡くなった末っ子の先立った2人の息子たちへの親不幸具合を怒りちらしていた。
あまり人には言わなかったが、おそらく少なからず悲しみも抱えつつ、楽しく趣味に没頭し、働き続けた。帰省の度にぶちかます孫のヘビー級のイタズラさえも全部見透かしつつ黙っていてくれていた。セブンスター大好きで、ヘビースモーカーながら90まで生きたし、大往生だな。

こういうふうに祖父さんを語った長さくらい、ぼくも孫に語られることになるんかな?まあ、ありがとう。

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