たとえば、レディスのドレスを中心に考えたとき、機械縫製:マシンメイド(以下マシン)も、手縫い縫製:ハンドメイド(以下ハンド)もそれぞれ魅力の方向性がありますし、たのしい創造性をたっぷり持っています。ここでマシンがスーツ的であり、ハンドがドレス的だ、ということの説明をしたいと思います。長いですし、かえってわからなくなる可能性もありますよ笑
さて、英国やイタリアの紳士物老舗のしっかりした上質な生地を使って、マシンメイドでシンプルなワンピースをお仕立てする、これは紳士がスーツをお仕立てすることに限りなく似ています。デザインと型、そしておおよそ使用される生地のテイストが決まっていて、歴史的に(スーツという共同規範幻想をキープしたまま)そのフォームを大切に受け継ぎながら、自身に似合うフィッティングと生地のセレクトをその範囲の中で選び、試し、探究していく。
これは英国のヴィクトリア期の後半、1900年ごろフロックコートの尻尾をちょきんと切って以降ほぼデザインが変わっていない 『紳士スーツというほぼ変わらない型』 であり、深みのある紳士スーツの装いづくりに似ています。
当然、スーツの歴史で言う創造性とは、視てすぐわかるへんてこりんな奇矯なデザインという類のものではありません。苦みばしった紳士の感性によって陶冶されてきた繊細なニュアンス、微差の世界です。
とくに紳士の場合ですが、オフィシャルなスーツに合わせるための白シャツのボタンがアクセントづくりために黒を選ぶ、とか、それはどんな優れた職人であっても、必要最低限のセンスを持っていないという点において、オーセンティックな装い全体の方針を立てる能力が無いことを意味します。話がそれました。
さて、婦人物のマシンメイドのワンピースに関してですが、一般的なオフィシャルな場面での着用と考えたとき、デコルテがやや狭くて、基本ボートネック寄りで露出が少ないもの、スカート丈は長め、だけど、裾に向かって蹴廻しがすぼまって、長袖というスタイルが打ち出しているものです。あまり体の線をくっきり出しすぎない、生地が揺れる動きの中で体の線が現われる、というスタイルです。
物を長いこと愛用し続ける英国の伝統から、上質な生地をたっぷり使って、余計なテンションをかけずに、生地をドレープ(揺ら揺ら)させて、シルエットをシュッと見せる、これこそが、ものを大切にする堅牢性と美意識が交わる結節点であり、歴史的な工夫と文化的な知恵がつくりだす意匠であり紳士・婦人に共通する優れた美意識です。
生地をできるだけたっぷり使っていることで、立つ、座る、歩く、などの動作のたびに、体のラインが現われたり生地のドレープに隠れたり、の繰り返しの残像が印象を作り出します。時間の流れとともに、そのひとの印象が動作を通して浮かび上がります。
ゆとり幅がなくて、全体がピタピタし過ぎて張り付いていると、"優雅な時間軸”がそこに無い着こなし、時間軸をゼロにしたかのような静止画像のようなシルエットになってしまいます。映画的じゃなくて、静止画像的という感じです。ざっくり言うと全体の印象がひらっぺったく、安くなります。
納期的にも、マシン(機械縫製)の場合は、1ヶ月前後ですので、自由にアイディアを試しやすいという強みがあります。これは、自身のキャラクターづくりの過程で、鋭く閃く、あるいは湧き上がってくる(本来の装いの醍醐味)装いのアイディア全体を一気に創りあげて全体観を持てる、自分の世界観を一気に持てる、ということを意味します。
置いてあるものを買うショッピングですと、バラバラにモノ中心にコレクション的に収集していくので、全体像がつくりにくい、ということがあります。たとえ最初に自分の全体イメージがあるとしても、それを見つけるために、ひたすら登場を待って、出会いに賭けるわけですね。
自分と同じセンスの、狙いのデザイナーが存在して、そのひとが、そのシーズン、自分に出せる可能な予算で一定のアイテムを作ってくれて、さらに自分がそれを見つけだす偶然が起こり、売り切れずに残っていてそれを手にすることができる、という確率に賭けるわけですね、、、本音でいえば、それは難しいと思います。
そこにおいて、人はじょじょにどうなっていくか?どういう方向に進んでいくか(誘導されていくか)というと、精神的に『受身』になる方向に進むわけです。
意志的な自分に合ったスタイルを諦めて、季節ごとに変わっていく、手に入りやすい、一斉に同じようなアイテムが出現してくる(咲く)『ファッションblossom』に自分を寄せるように再設定しなおします。そうすると、本当にほしいものを探して苦労するより、みんなと一緒の手に入れやすい、ほぼ共同購入に近い商品を購入することができます。
一方、仮縫い付きのハンドメイドはどうでしょうか?こちらは、ひとことで、やれることが全て、といえるほど広い範囲に渡っています。ゼロ⇒1です。そもそもですが、オートクチュールというと、協会員だけが謳えるという考え方をレスペクトしてぼくらは、自分たちのことをオーダーメイドという和製英語で謳っています。(以前はオートクチュールと言っていました)基本どちらでもいい、依頼人候補者にとってああ、あれか、とわかりやすければどちらでもいい、と考えています。使われなければ廃れていくとも思っていますが。。。
実際のオートクチュールは、そのシーズンごとに型が決まっているものを、マヌカンが着て、プライベートな規模のショーを催して、注文を受けつけ、それをその注文者のサイズで仮縫いしてつくる、というものです。
そう考えると、ゼロ⇒1で新しいパターン、デザインを描き起こすということは、猛烈に贅沢な行為といえます。これを、コクシネルではさりげなく日常的に行なっています。
それは現在の小さな、てんとう虫チームとしての“小さな”規模感がなせる技でもあり、できるかぎりこの小規模のまま、今のまま理解者、共感者に助けられながら、深堀り、深化、追究していきたいと思っています。
こちらのオーダーメイドにおいては、デコルテのシェイプ、露出分量、肩からウエストのライン、ゆとり量、ウエストから蹴廻しまでのシェイプなどすべてが完全に制御可能です。しかし、自由に何でもできるからといって、一番最初の方針づくりであまりにもだれでも陥り:おちいり、そうな『個性のトラップ:個性という名の罠』にかかってはいけません。
こちらも、冷静に基本線を極端に逸脱しないように、そのほうが長い目で見て賢い選択だ、ということをアドヴァイスするようにしています。むしろ、何でも出来るオーダーメイドだからこそ、シンプルにミニマルに考えることがまた一歩、自身の最高のシルエットを究めることになります。ラインづくりに淡々と、営々と、容赦なく歩を進めるけれども、徹底的に力んでいないことが大切です。みてすぐわかるデザインに対しては恬淡:てんたん としていただきたいのです。
流れるような美しいカッティング、フッと妖精が息を吹き込んだような膨らんだパフ、涼風が吹きぬけたように揺らめくドレープ、優雅に身体の線に沿ってみたり、離れてみたりするブラウジング、、、。オーダーメイドを徹底的に自分のための特別の魔法にして、シルエット全体を淡い魅力でつつむ:blooming、纏う、そんな特別のドレスであるように、と願っています。
冒頭に戻ってみると、マシンはスーツ的であり、ハンドはドレス的です。スーツは、自由さ不自由さの両方の要素があるからこその魅力です。一定のフォームがあるからこその、隠せない個性の表出が起こります。
控え目であればあるほどセクシーでもあるのがこの世界です。それは精神と肉体の両面のセンスがスーツの印象をつくるからです。肉体や精神の自由さ不自由さ、露出と隠蔽の両方があるからこその魅力といえます。
一方、ハンドメイドはドレス的だ、というのは、より解放的な自由さにその魅力があるからです。純然たる自己の追究の先にある世界観です。アイコンとかシグニチャーとか自由奔放に、徹底的に自分のために、たとえ若干の社会性を加味する必要があるとしても、甘美な自己探求といえます。
甘美、というのはオーダーメイドをあらわす、特徴的な形容詞です。繰り返しになりますがマシンは禁欲的、しかし、だからこその余韻、です。どちらも、きわめてエモーショナルです。ですからわれわれコクシネル・チームは飽きることがありません。この本質を感覚的に理解した上で、存分にそれぞれの世界観、情感、ときに詩情を愉しんでいただきたいです。
離見の見というか、3カメ目線というか、文楽で自分という史上最高に興味の尽きない人形を操るように、御自身の舞台をお気に入りの設定でちょっとスリリングに愉しんでいただきたいのです。