2010/07/01

押し付けか? 刷り込みか?


ミーティング帰りの電車の中で、親子の会話が聴こえてきました。テレビの観すぎ、ゲームのやりすぎには、気をつけてねという親、それに対して、押し付けないでという子供の反論。。。電車の移動時間が長くてヒマだったので、いろいろな角度から考えてみましたが、結論からいうと、やはり親の意志的な押し付けが大事だ、というところに至りました。

人は、押し付けられることを、うまく逃れられたとしても、現代の人々を取り囲んでいる環境は、テレビや新聞、雑誌、ラジオの大手メディアであったり、ネットや噂だったり、、それらを無意識的に近いかたちでインプットしている(されている)わけですから、無意識的に 『なんらかの刷り込み』 を甘んじて受けていることになります。

親の押し付けか、どんな意図にもとづくものかも、よくわからない不気味な刷り込みか、どっちを選びますか?という部分があります。ひらたく言うと、“刷り込み”より“押し付け”のほうがまだマシということです。

たとえば、ファッション誌を読むことで広がる世界もあります。しかし、その一方で、ファッション誌を読み過ぎたために、たとえば、“洋服は“痩せて背が高くないと似合わない”というような間違った偏見が刷り込まれたりします。ファッション誌を読まないで獲得できる自由もあるという考え方もあります。

非常に大事なことは、いつも受身で情報を受け取っていることは、知らず知らず偏って硬直した感覚に自分が追い込まれている、ということに気づけなくなっていることです。最近の自己啓発書にある、すべては自己の中で起こっていること、という考え方も非常に危険ですね。ものすごく扱いやすい、支配しやすい、コントロールしやすい羊たちを育てる考え方に思えます。

ちょっと表現が難しくなりますが、あたりまえなことをいまさら言うと、スピリチュアルの考え方にありがちな、唯我論、唯心論、唯脳論のような『自分にフォーカスした』見方を片手に持っている場合、必ずもう片方の手には、唯物論のような『社会のお金の流れ、大きな仕組みにフォーカスした』の考え方を持っていないと、本当の自由な考え方を持つことはできませんよね。

電車内で聴いた親ごさんの説教は、子供の自由を束縛しているようで、実は、子供が受け取る 『無意識の刷り込み』 を遮断して、自分でものを考えるという自由を獲得するための、ホップ⇒ステップ⇒ジャンプにおける、ステップ部分を提供しているようなもので、その子供にとっては、ゆくゆくは自身の力でジャンプすべく意志的未来が開けているようにも感じました。

わけのわからない物を、わけのわからない者によって刷り込まれる可能性よりも、多少偏見に満ちていたとしても、意図がはっきりした要求を 『ひと』 対 『ひと』 で親という明確な存在から受け取る、というほうが、まだ未来があると思います。

昨今、優秀な教育者のひとびとが、丸暗記させたり、フォームを重要視したり、最低限の範囲では徹底的に押し付け教育の必要性を説く話を聞いたり読んだりすると、深く納得させられることが多いです。

昨今の大人の『押し付け量』がめちゃめちゃ少なすぎるもんだから、その結果、『刷り込み量』が圧倒的優勢です。その結果、世論とマスコミの考え方がほぼイコールという現状になってしまっているのでしょう。

親と対立するシーンで、“押し付けないでちょうだい”という子供について考えてみても、反発する、という意志のエネルギーを発動させていることは確かで、ある意味、ほんとうの独立した意志に到達するまでラスト1マイルですよね。

反対に自分は“自由だ” と、ぬるく勘違いしていると、自由にものを考えたり、ファッションも含めて、コマーシャリズムに影響うけない独立した感覚の引き出しが、どんどん少なくなってきてしまいます。しらずしらずのうちに、受身で無意識にいろいろな情報をインプットされ、大量に刷り込まれた子供ほど、自分でものを考えたり、感じたりできる自由からは、むしろほど遠い人間になってしまうんじゃないかと思います。



おそらく今の親である世代、80年代、90年代世代の人間は自分の意見を表明することを避けるムードで育った(そういう文化がクールだと刷り込まれた世代な)ので、ますます、何らかの、どこの、だれかわからない大きな存在からの、意図的な刷り込みされやすいです。

昨今ニュースを観ても、日本の当面の国政がきまってしまう参議院選挙という重大なイベントを前にして、いったい、どこのだれが興味があるのか、皆目見当がつかないのですが、相撲部屋の賭博問題の報道が延々と続き(おそらく日本の巨悪問題ベストテンでいうと、672位くらいじゃないですか。)、ぶきみな違和感と、どんな意図が働いているのか、危機感を持ちます。

多くのアフォリズムで世の中を挑発した19世紀のダンディ、オスカーワイルドのせりふ、『世論とは思想の無いところにのみ生まれるものである』も、昨今の日本にあてはまります。たびたびなされる世論調査がどれだけ信憑性があるのかわかりませんが、人が思想やこだわりを無くして自由になったつもりでいることが、 『刷り込み勢力』にとっては、願ったりかなったりの最高に理想な状態なのでしょう。

歴史を尊敬しながらも、偏見にとらわれず、独立した自由なスタイルで装いを愉しむ一方で、ものの観方・考え方・行動も、すべて自分らしくて切れ味がよくて、抜けがよくて、自由でのびのびしたものでありたいですね。↓エジンバラ@スコットランドのブリタア号に飾られている剣。エジンバラにてさまざまな財宝級のアイテムを拝見いたしました。

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